「尾崎加寿夫」ビーレフェルト


ドイツのブンデスリーガで
奥寺康彦に続く2人目の日本人
選手となったのは◯◯◯◯◯?
◯の漢字をひらがなで答えなさい
おざきかずお(答)
尾崎加寿夫
47%

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ブンデスリーガ初の日本人
サッカー選手、奥寺康彦が
最初にプレーしたドイツの
クラブは1FCケルンですが

ブンデスリーガでプレーした
2人目の日本人サッカー選手
尾崎加寿夫が最初にプレーした
ドイツのクラブは?
ブレーメン
アルミニア・ビーレフェルト(答)
レバークーゼン
1FCケルン
引用元:「アルミニア・ビーレフェルト」尾崎加寿夫が所属 http://seethefun.net/%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/26084/

尾崎 加寿夫(おざき かずお、1960年(昭和35年)3月7日 – )は、東京都出身の元サッカー選手、サッカー解説者。ポジションはフォワード。奥寺康彦に次いで日本人として2人目のサッカー・ブンデスリーガ (ドイツ)でプレーした選手となった[1]。

1983年6月、ジャパンカップ83を体調不良を理由に欠場。この期間に無断で渡独しビーレフェルトの練習に参加していた事が発覚すると、選手規定に抵触するとして大問題に発展した(「尾崎問題」)。7月、三菱重工サッカー部を退部しビーレフェルトに移籍。8月13日、ブンデスリーガに日本人2人目のプロ選手としてデビュー。初戦のシャルケ04戦で先発出場を果たすと、前半に左から鋭く切れ込み西ドイツ代表の守護神ハラルト・シューマッハーを破り初得点を決める。11月5日、奥寺康彦の所属するブレーメンと対戦。これが海外での日本人選手同士の初対決となった[3]。1986年、ビーレフェルトは2部(ツヴァイテリーガ)へ降格。
引用元:尾崎加寿夫 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E5%B4%8E%E5%8A%A0%E5%AF%BF%E5%A4%AB

 77年には、当時世界最高のリーグといわれたドイツ・ブンデスリーガに奥寺康彦が参戦。ケルンでの1年目でリーグ優勝に貢献し、「東洋のコンピューター」というニックネームをつけられるほどの高い評価を受けた。

 この初挑戦から6年後、ドイツへの挑戦者第2号となったのが、当時23歳の尾崎加寿夫だ。当時、日本サッカー界において最も将来を嘱望される得点力の高いアタッカーだった。

 日本大学高校時代には高校選手権にも出場し、78年に日本リーグの強豪、三菱重工(浦和レッズの前身)に加入。ユース代表としても活躍し、79年の自国開催のワールドユース(現U-20ワールドカップ)ではキャプテンとしてグループリーグの3試合を戦った。

 その後はA代表にも名を連ねるなど、順調にキャリアを積み重ねた尾崎。しかし、その能力の高さゆえに83年、大騒動の当事者となってしまう。

 84年のロサンゼルス五輪出場に向けて重要なトレーニングとなる親善試合を日本代表が戦っていた時、怪我で代表を辞退したはずの尾崎は、アルミニア・ビーレフェルト入団のためにドイツに渡り、ボールを蹴っていたのだ。

 嘘をついて渡独したとして、尾崎に対する風当たりは一気に強くなった。ロス五輪出場への重要な戦力として尾崎を日本に留めたいサッカー協会、そして本場でプロとして挑戦したいという尾崎という、互いの思惑がぶつかった結果の騒動だった。

 この問題は、後に三菱が尾崎の意を汲むかたちで退部処分にしたことにより解決。彼はフリーとなり、問題なく(協会も移籍証明書を即発行)ビーレフェルトとプロ契約を交わすことができた。最初の年俸は約1千万円といわれている。
引用元:【今日の誕生日】3月7日/ドイツへの道を開拓した先駆者のひとり――尾崎加寿夫 | サッカーダイジェストWeb http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=14505