西本幸雄「悲運の闘将」大毎・阪急・近鉄


大毎・阪急・近鉄の監督として
計8度も日本シリーズに進むも
日本一になれず「悲運の闘将」と
呼ばれた人物は
梶上利幸治
西雄降田本
西本幸雄(答)
55%

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30歳でプロ野球選手に
1979年に正力松太郎賞を受賞
監督として8度日本シリーズへ
「悲運の名将」と呼ばれる
三原脩
川上哲治
西本幸雄(答)
藤本定義

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次のうち、西本幸雄が
監督を務めたことがある
プロ野球チームを全て選びなさい
中日
広島
大毎(答)
阪急(答)
近鉄(答)
引用元:1000勝以上のプロ野球監督「鶴岡一人」「三原脩」「藤本定義」「水原茂」「野村克也」「西本幸雄」「上田利治」「王貞治」「別当薫」「星野仙一」「川上哲治」「長嶋茂雄」 http://seethefun.net/%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/10244/

西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 – 2011年11月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手、コーチ・監督、野球解説者、野球評論家。

監督・指導者として[編集]
20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず、「悲運の名将」と言われた。ただし西本当人は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「もし、私が本当に悲運なら戦争で死んでいるし、復員してからも野球に再会できたり、大毎・阪急・ここ(近鉄)の3チームで素晴らしい選手に巡り合えて、8度も日本シリーズに出場などできない。“悲運の名将”なんておこがましい。敢えて言うなら“幸運な凡将”ですね(笑)」と語っている[14]。3つのチームを優勝に導いた監督は、プロ野球史上で西本、三原脩、星野仙一のみである(2015年現在)。三原が指揮したのが1リーグ時代の巨人とセ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄・大洋)、星野がセ・リーグの中日・阪神とパ・リーグの楽天だったのに対し、西本が指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代も含めてパ・リーグ一筋の野球人生だった。
阪急・近鉄時代には時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導いた。西本のように、2チームで自らチームの土台を作り上げて優勝させた監督は極めて稀である(他には巨人・東映を率いた水原茂、ヤクルト・西武を率いた広岡達朗、近鉄・オリックスを率いた仰木彬など)。
1960年の大毎監督辞任、1966年の信任投票事件、1975年の羽田殴打事件などに見られるように、チームの強化と見込んだ選手の育成のためにはあえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さなかった。1978年オフには監督辞任を表明したが、「俺たちを見捨てないでくれ!」と選手に引き止められて辞任を撤回し、1979年・1980年とリーグ二連覇を達成。選手にこれほど慕われた監督は珍しく[15]、勇退表明後、最後の試合となった1981年の近鉄対阪急最終戦(日生球場)では両チームの選手から胴上げされた。
引用元:西本幸雄 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%9C%AC%E5%B9%B8%E9%9B%84

梶本 隆夫(かじもと たかお、1935年4月8日 – 2006年9月23日)は、岐阜県多治見市出身のプロ野球選手(投手)・プロ野球監督・プロ野球コーチ・野球解説者。山梨県甲府市生まれ。
愛称は「梶」あるいは「梶さん」「梶やん」。
弟は元プロ野球選手の梶本靖郎。

後に入団する米田哲也とヨネカジコンビを形成し、Bクラスが多かった昭和30年代の阪急を支えたが、二人とも年間50試合前後の登板数であり、このタフさがチームの支柱となっていた[3]。1967年はパームボールを習得して15勝を挙げ、念願の初優勝に貢献。同年に通算200勝を達成。1973年限りで現役引退。通算254勝255敗と、200勝以上を記録した投手の中で唯一負け越している。時には貧弱な打線を支えるべく3番として出場したことがあるほか、一塁手として試合に出場したこともあった。また、1966年にはシーズン15連敗という不名誉な記録をマークした結果、200勝以上を記録した投手としては史上初の先に200敗を記録した投手となった(後に東尾修も記録)。
引用元:梶本隆夫 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B6%E6%9C%AC%E9%9A%86%E5%A4%AB

上田 利治(うえだ としはる、1937年1月18日 – 2017年7月1日[1])は、徳島県海部郡宍喰町(現・海陽町)出身のプロ野球選手(捕手)・監督。
現役時代は広島カープでプレーし、その後は広島、阪急ブレーブス→オリックス・ブレーブス、日本ハムファイターズのコーチ、監督を歴任。特に阪急では黄金時代を築いたことから「名将」と称された。

監督時代[編集]
西本幸雄から受け継いだ円熟期の阪急、若返りを迫られた阪急2期目、最下位からチーム作りを迫られた日本ハム時代と、3つの大きく異なるチーム状況下で、いずれも結果を出したことから「オールマイティー型監督」と評された。
現役時代に高い実績を残した選手が監督に就任するケースが多い日本プロ野球界において、選手としては無名という異例の経歴であり、選手と指揮官の才能は別物であることを証明した監督となった。早くから指導者として期待されており、現役引退時に松田オーナーが「将来の指導者として入れた」と本人に伝えた程、当時から野球理論に長けていた。また、阪急への入団は、広島時代から上田の指導者としての才に注目していた山内一弘の紹介によるものであった[13]。山内は引退後西本監督から阪急入りを要請されていたが、既に川上哲治が率いる読売ジャイアンツに打撃コーチとしての入団が決まっていたため、広島の同僚だった上田を監督の西本に推薦した[13]。先に鶴岡一人が近鉄の監督になるという話があり[13]、尊敬する鶴岡から上田はコーチとして呼ばれていた[13]。しかし明日発表という日に鶴岡がキャンセル[13]。結局、阪急に行ったが、近鉄に入っていたら監督はやらなかったと思うと話している[13]。
広島東洋カープとの1975年の日本シリーズに臨むにあたり、敵将・古葉竹識の知略を尽くした手法を熟知していた上田はスタッフに対し、シリーズ1・2戦における広島投手陣の投球をできる限りフィルム撮影しておくよう指示を出した。上田と古葉は同学年であり、かつての広島でチームメイトで一緒に広島を出て、再び相見えたことから「兄弟対決」ともいわれた[13]。こうして持ち込まれた膨大なフィルムをコーチ陣とともに広島投手の癖や傾向等を徹底的に研究した。結果、阪急はこのシリーズを制することになる。第1期阪急監督時代は「パシフィック・リーグに阪急の敵なし」と言われ、日本シリーズでも山本浩二を擁する広島や、王貞治が現役だった巨人を圧倒する力をみせる等、その強さは伝説化している。この時代の阪急は日本シリーズで3年連続で巨人を倒した三原脩率いる西鉄、川上哲治率いるV9時代の巨人と並び、プロ野球史上最も強かったチームとして今でも語り継がれている。
引用元:上田利治 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E5%88%A9%E6%B2%BB