「大野豊」42歳で最優秀防御率


1997年に日本プロ野球史上最高齢
の42歳で、最優秀防御率の
タイトルを獲得した投手は誰?
フルネームで答えなさい
おおのゆたか(答)
-%
大野豊

連想
出雲市信用組合から広島に入団
社会人時代は軟式野球のエース
1988年と1997年に最優秀防御率
1991年92年に2年連続最多セーブ
大野豊(答)

大野 豊(おおの ゆたか、1955年8月30日 – )は、島根県出雲市出身の元プロ野球選手(投手)。1977年から1998年まで、広島東洋カープにおいて22年間活動した。

>実家は海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった[1]。母子家庭であり、母の苦労を見ていたので「中学を卒業したら、就職する。」と胸に秘めていたが、せめて高校だけは出て欲しいと家族が要望したため、すぐに働くための実学が商業高校であれば学べるということで出雲商業高校を選んだ[1]。

>現役時代[編集]
1年目の1977年は9月4日の対阪神タイガース戦(広島市民球場)に1試合登板したのみだったが、この時片岡新之介に満塁本塁打を打たれるなど、掛布雅之からアウト一つを取ったのみで降板[2]。自責点5、防御率135.00という成績を残した。この試合後、大野はあまりの悔しさに泣きながら太田川沿いを歩いて寮まで帰った。本人によれば、帰寮直後には観戦していた友人から「自殺するなよ」という電話があり、山本一義コーチから「死ぬなよ」と言われたという[3]。大野は後年、「いくら成績が悪くとも、この時の防御率を下回ることは絶対にない。スランプの時にそう考えると、精神的に大分楽になった」と語っている。

>1978年、南海ホークスから移籍してきた江夏豊に見初められ、古葉竹識監督から預けられるという形で、二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組み始める。江夏は当時の大野について「月に向かって投げるようなフォームだった。しかし、10球に1球ほど光るものを感じたから、とりあえずキャッチボールから変えてみようかということになった」と語っている。また、江夏は「俺と同じ『豊』と言う名で、俺と同じ母子家庭で育ち、俺と同じ左腕投手なのも何かの縁。俺の弟のようなもの。是非、俺の後継者にしたい!」と大野を評していた。時に鉄拳も飛ぶ[4]厳しい指導の末、やがて大野は中継ぎの柱へと成長を遂げた。

>1997年、41歳にして開幕を迎えながら好調を持続し、防御率2.85で2回目の最優秀防御率のタイトルを獲得した(この年の防御率部門は1位から4位までが0.14差の大激戦で、特に10月10日・11日の対ヤクルト25回戦・26回戦には結果次第では防御率1位に躍り上がる田畑一也、吉井理人が登板。広島チームメイトは大野に防御率のタイトルを取らせるために果敢に両投手を攻め、チームは連敗したが田畑は4回を投げ3失点(自責点3)吉井は3回2/3を投げ3失点(自責点3)となりタイトル奪取を阻止した)。

>親友でありチームメイトでもあった達川光男や、掛布雅之、江川卓らと同学年である。大野が現役晩年に最優秀防御率のタイトルを獲得した時は、既に引退して解説者として名を成していた彼らと比較して「現役で一軍にいることすら驚異的な年齢であるにもかかわらず」と語られることがしばしばあった。彼らの学年は多くのスター選手を輩出したことで知られ、高校3年時が昭和48年だったことから“花の48年組”とも呼ばれている。
引用元:大野豊 (野球) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E8%B1%8A_(%E9%87%8E%E7%90%83)