「習志野高校」小川淳司「下関商業」池永正明「東山高校」岡島秀樹


次のプロ野球選手を
出身高校ごとに
グループ分けしなさい
61%

東山高校下関商業習志野高校
小川淳司
池永正明
岡島秀樹

小川 淳司(おがわ じゅんじ、1957年8月30日 – )は、千葉県習志野市出身の元プロ野球選手(外野手)。2010年シーズン途中から2014年シーズンまで東京ヤクルトスワローズの監督を務めた。

中学時代は三塁手としてプレーし、目立った実績のないまま地元の習志野高校に進学[1]。体が大きく肩が強かったため捕手にコンバートされたが、故障者が出たのをきっかけに1年生の秋に投手に転向した。1年生当時、2学年上に掛布雅之がおり、当時は話もできなかったが意識する存在だったと述べている[2]。

人物[編集]
非常に真面目な性格で、現役時代は酒を一切飲まなかった。自分の練習の後も最後まで残って球拾いをしていた姿を見て当時の関根潤三監督が「オマエら、小川を見習え!」と褒めていたという[14]。
また後任の野村克也監督からは、1990年4月28日の対巨人戦でそれまで宮本和知の前に2三振を喫していたところ捕手の山倉和博のリードに対する読みを伝授された(その結果、3打席目に本塁打を放った)ことや、守備固めに入った試合の翌日、当たり前に処理しただけと自身が捉えていた前日のプレーについて「昨日はナイスプレーだったな。(守備が)上手いやつの追い方だ、あれは」と褒められたこともあった(野村が選手を直接褒めることは滅多にない)[15]。
犯罪者を更生させる保護司を務めていた父の「犯罪者は出会いの失敗者なんだ」という言葉を聞いてから「指導者となった自分が、選手にとって出会いの失敗になってはならない」と考えるようになり、その信念の下、二軍監督時代には練習もほとんどせずに怠惰な生活ばかりを送っていた[16]畠山和洋を精魂かけて指導し、後のヤクルトの主力選手にまで成長させた[17]。
引用元:小川淳司 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%B7%B3%E5%8F%B8

池永 正明(いけなが まさあき、1946年8月18日 – )は、山口県豊浦郡豊北町(現:下関市)生まれの元プロ野球選手。

下関商業では、投手として3期連続で甲子園に出場し、2年時の春は北海道代表として春夏通じて初めて決勝に進んだ北海高校を10-0で退けて優勝、夏は準優勝だった。3年夏は県大会で亀井進を擁する早鞆高校に敗れた[1]。1965年、後にプロゴルファーとなる尾崎正司(のち将司)らと共に、西鉄ライオンズに入団する。

黒い霧事件・永久追放処分[編集]
しかし、1969年のシーズンオフに黒い霧事件が明るみに出る。チームメイトの永易将之が八百長(敗退行為)をした疑いのある西鉄の6人の選手を挙げ、その中に池永が入っていた。
当初は金銭授受による八百長を否定していたが、田中勉から金銭に絡む詳細な証言が出てくると金銭授受を認めた上で「絶対に八百長などしていない。先輩である田中勉から『預かってくれ』と言われた金を押入れにしまっていただけだ」と主張。刑事事件としては池永は不起訴処分となった。だが日本野球機構側は、1970年5月25日に池永を永久追放処分とした。理由は池永が依頼金を受け取り返さなかった事、誘われた事実を機構事務局に通報するのを怠った事、実際に1969年シーズン終盤に短いイニングでKOされた試合が2試合あったことをあげられた。同じく永久追放処分となった益田昭雄や与田順欣は「池永が自分たちと同じ処分なんて球界の損失だ。あのような投手はもう出てこない」と涙ながらに訴えたが、処分は変わらなかった。同時に疑いをかけられていたチームメイトの基満男は厳重戒告処分で終わっており、当時から地元新聞を中心に「見せしめの為に永久追放になった悲運のエース」という言葉が躍っていた。

復権[編集]
2005年3月16日にオーナー会議で永久追放処分者他に対する復権について野球協約が改正されたことから野球界復帰の路が開かれることになり、同年4月25日に日本野球機構(NPB)は池永に対する処分を解除し、池永は35年ぶりに復権した。これにより池永はプロ野球指導者・野球解説者・評論家としての活動が可能になり、2008年からRFラジオ日本の解説者として『週刊ベースボール』の解説者名鑑に記載されたが、実際には出演がなかった。
同年11月、山本譲二が総監督を務める社会人野球チーム「山口きららマウントG」の監督に就任することが発表された。マスターズリーグ福岡ドンタクズの第2代監督にも就任した。
2011年8月16日には、TVQ九州放送『TVQスーパースタジアム』にゲスト出演、初めて解説を担当する。
引用元:池永正明 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E6%98%8E

岡島 秀樹(おかじま ひでき、1975年12月25日 – )は、京都府京都市伏見区出身の元プロ野球選手(投手、左投左打)、野球解説者。

東山高校に在籍中、選抜高等学校野球大会(センバツ)に2回出場(1992年、1993年)。高校2年春(1992年)のセンバツでは、初戦に御殿場西高校と対戦。機動力野球の相手に多くの盗塁を許すなど苦しむも、4-3で勝利。なお、この時の御殿場西高校のエースが小野晋吾であった。次の浦和学院高校戦は1-5と敗れベスト16に終わる。2年秋の近畿大会に優勝し、3年春(1993年)のセンバツでは優勝候補にも挙げられたが、初戦で国士舘高校に2-6と敗れる。最高で142km/hの球速を計測するも、制球難から自滅。初回からいきなり死球・四球・暴投と典型的な一人相撲であった。
1993年のプロ野球ドラフト会議で読売ジャイアンツ(巨人)から3位指名を受けて入団。

選手としての特徴[編集]

岡島の投球フォーム
“Non-looking delivery”と呼ばれる、リリースの瞬間に顔を下に向けてホームベース方向を見ずに投げる独特の投球フォームで知られている(投球方向と投球後の打球確認のため、リリースの前後にはホームベース方向を向いている)[35][36]。平均球速87mph(約140km/h)、最速91.3mph(約147km/h)の速球(フォーシーム、ツーシーム、カッター)、“Oki-Doke(オキ・ドーキー)”と呼ばれるフォークボールの握りから投げるチェンジアップ、縦に割れるカーブを投げ分ける[37][38]。チェンジアップは握り方からスプリッターに分類されているが[39]、本人は「球の軌道はチェンジアップだから、チェンジアップと呼んでいる」という[40]。かつてはカーブを軸としていたが[41]、メジャーの滑りやすいボールではカーブがうまく制球出来ず[42]レッドソックス移籍後2年間はチェンジアップを多投するようになり、2009年からはチェンジアップの割合を減らして速球系の球種をより多投するようになった[39]。
引用元:岡島秀樹 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%B3%B6%E7%A7%80%E6%A8%B9