「前田山英五郎」シールズ事件 萩森金松 但書横綱免許

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大相撲の第39代横綱
本名は「萩森金松」
条件付きで横綱に昇進
「シールズ事件」で引退
前田山英五郎(答)
吉葉山潤之介
琴櫻傑將
玉の海正洋
52%

連想
大相撲の第51代横綱
本名は「谷口正夫」
北の富士と共に横綱昇進
1971年に虫垂炎で急死
玉の海正洋(答)
たまのうみまさひろ

連想
大相撲の第53代横綱
本名は「鎌谷紀雄」
32歳と高齢での横綱昇進
引退後、佐渡ヶ嶽部屋を継承
琴櫻傑將(答)
ことざくらまさかつ

連想
大相撲の第34代横綱
本名は「坂田供次郎」
引退後は衆議院選挙などに出馬
四股名の由来は陽成天皇の和歌
男女ノ川登三(答)
みなのがわとうぞう

連想
大相撲の第49代横綱
本名は「花田茂廣」
怪我のため28歳で引退
引退後、春日野親方を襲名
栃ノ海晃嘉(答)
とちのうみてるよし

前田山 英五郎(まえだやま えいごろう、1914年5月4日 – 1971年8月17日)は、愛媛県西宇和郡喜須来村(現:愛媛県八幡浜市)出身の元大相撲力士。第39代横綱。本名は萩森 金松(はぎもり かねまつ)。

>1948年に吉田司家から横綱免許が授与されたが、前田山の性格から前代未聞となる但し書き付き(「粗暴の振る舞いこれありし、時には自責仕る可く候」とのこと)の免許状だった。横綱昇進後は休場が多くなり、1949年10月場所(当時の秋場所は大阪での開催だった)は初日の力道山戦に勝利しただけで5連敗を喫し、大腸炎を理由に休場・帰京した。

>しかし、同年10月15日の夕方に協会へ休場届を提出して病院に戻ると思われた矢先、後楽園球場へ出向いてフランク・オドールと握手したほか、そのままサンフランシスコ・シールズと読売ジャイアンツの試合を観戦した。この時の写真が新聞に大々的に取り上げられ、ただの横綱ではなく二枚鑑札として師匠を兼ねる立場[6]であったため、職権乱用の末の不祥事に非難が殺到、急遽帰阪した前田山は14日目以降の横綱土俵入りと千秋楽の取組の出場を希望したが全て却下され、さらに引退勧告を出されてそのまま現役を引退した(シールズ事件)[7]。部屋の力士たちと草野球チームまで作るほどの野球好きが、結果的に仇となってしまった。

引退後[編集]
1951年には藤田山忠義・大ノ海久光・八方山主計を連れてアメリカ合衆国を巡業し、積極的に海外へ相撲を紹介した。当時としてはアメリカ巡業は前例がなかったが、当時の前田山の気性の激しさやGHQの仲介が影響して敢行に至った。1959年には大阪場所に強く「大阪太郎」の異名を取った朝潮太郎 (3代)を横綱に昇進させたほか、前の山太郎を大関へ育てるなど弟子の育成手腕は高く、高砂部屋所属の力士が幕内で最多人数を数えたこともあった。1964年には、のちに外国人力士初の関取となる高見山大五郎を入門させた。取り分け海外への相撲普及が実績として目立ち、愛称「国際部長」は高砂固有の役職名として公式記録に後年まで残っている[1]。
引用元:前田山英五郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%B1%B1%E8%8B%B1%E4%BA%94%E9%83%8E