世界王者順「渡嘉敷勝男」「井岡弘樹」「大橋秀行」

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次の元プロデューサーを
初めての世界王者になったのが
早い順に選びなさい
渡嘉敷勝男 1981「ライトフライ級」
井岡弘樹 1987「ミニマム級」
大橋秀行 1990「ミニマム級」

渡嘉敷勝男
浜田剛史
井岡弘樹
大橋秀行
鬼塚勝也
薬師寺保栄

日本のボクシング世界王者一覧は、日本のボクシングの世界王座保持者の一覧である。日本のジムから誕生した世界王者であり、日本国籍を持たないボクサーも含む。また、本記事で取り上げる世界王座は日本ボクシングコミッション(JBC)非公認も含まれており、「日本のジム」も日本プロボクシング協会(JPBA)加盟ジムとは限らない。一人で複数のタイトルを手に入れた選手に関しては、最初に取ったタイトルの年月日を参考にしている。
引用元:日本のボクシング世界王者一覧 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%83%9C%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E4%B8%96%E7%95%8C%E7%8E%8B%E8%80%85%E4%B8%80%E8%A6%A7

渡嘉敷 勝男(とかしき かつお、男性、1960年7月27日 – )は、日本の元プロボクサー、タレント。沖縄県コザ市(現・沖縄市)出身[1]、兵庫県宝塚市育ち。
第6代WBA世界ライトフライ級王者。現役時代は協栄ボクシングジムに所属。
>1981年12月16日、世界初挑戦。金煥珍(韓国)を15回判定に降し、WBA世界ライトフライ級王座獲得[1]。同王座は具志堅が3月に14度目の防衛戦で敗れ、手放していたもので、渡嘉敷にとっては9か月前の先輩の無念を晴らす形となった。
引用元:渡嘉敷勝男 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E5%98%89%E6%95%B7%E5%8B%9D%E7%94%B7

浜田 剛史(はまだ つよし、1960年11月29日 – )は、日本の元プロボクサー。本名・旧リングネーム:浜田 剛(読み同じ)。沖縄県中頭郡中城村出身。元WBC世界スーパーライト級王者。沖縄県立沖縄水産高等学校卒業。帝拳ボクシングジム所属。現在はプロボクシング解説者、健康食品会社社長。帝拳プロモーション代表。入場曲は『ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO』。
1986年7月24日、22戦目にして世界初挑戦。東京・両国国技館でWBC世界スーパーライト級王者レネ・アルレドンド(メキシコ)に挑む。39勝中37KOを誇る強打の王者相手に積極果敢に打ち合いを挑む。迎えた初回終了間際、右フックで王者の腰を大きく落とさせると、一気に連打を叩き込み、最後は左ストレートでダウンを奪う。王者は起き上がることができず、そのまま10カウント。3分9秒KO勝ちを収め念願の世界王座奪取に成功。
引用元:浜田剛史 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%9C%E7%94%B0%E5%89%9B%E5%8F%B2

井岡 弘樹(いおか ひろき、1969年1月8日 – )は、日本の元プロボクサー、タレント。第2代日本ミニマム級王者、初代WBC世界ミニマム級王者、第11代WBA世界ライトフライ級王者。大阪府堺市出身。現役時代はグリーンツダボクシングクラブ所属。エディ・タウンゼントの最後の愛弟子。井岡ボクシングジム初代会長。現在はよしもとクリエイティブ・エージェンシー所属タレント(マネジメント契約)として活動する傍ら、井岡ボクシングトレーニングジム(通称:井岡弘樹ジム)の会長も務める。右ボクサータイプ。大阪経済大学経営学部在学中。
>1987年10月18日、9戦目にして世界初挑戦。新設されたばかりのWBC世界ミニマム級王座決定戦に出場。マイ・トンブリフラム(タイ)を12回判定に降し、日本国内最年少新記録となる18歳9ヶ月10日で世界王座獲得。また、日本のジムに所属する選手の9戦目での世界王座獲得は、具志堅用高と並ぶ国内最短記録(当時=現在は井上尚弥の6戦目)。
引用元:井岡弘樹 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E5%B2%A1%E5%BC%98%E6%A8%B9

大橋 秀行(おおはし ひでゆき、1965年3月8日 – )は、日本の元プロボクサー。神奈川県横浜市出身。現役時代はヨネクラボクシングジム所属。日本ジュニアフライ級(現・ライトフライ級)、WBC世界ミニマム級ならびにWBA世界同級王座を獲得した。現在は大橋ボクシングジム会長。2007年4月1日より東日本ボクシング協会会長、2010年4月1日にはこれと兼務する形で日本プロボクシング協会(JPBA)会長に就任している[1]。2013年からは日本ボクシングコミッション(JBC)理事も務める[2]。
兄の大橋克行もプロボクサーとして活躍した。山際淳司の「逃げろ、ボクサー」のモデルとして知られる。
>1990年2月7日、階級を1つ下げ、ミニマム級での世界挑戦。後楽園ホールでWBC世界同級王者崔漸煥(韓国)に挑む。当時、日本ボクシング界は1988年11月13日に井岡弘樹がナパ・キャットワンチャイ(タイ)に敗れ、WBC世界ミニマム級王座から陥落して以降、世界王者不在の状態が続いており、国内ジム所属選手の世界挑戦連続失敗回数も「21」にまで伸びていた。それだけに、「日本ボクシング界最後の切り札」としてこの日の大橋に懸けられた期待は非常に大きかった。試合は一進一退の攻防に終始。そして、迎えた9回、左のボディブローで王者からダウンを奪う。辛くも立ち上がった王者に対し、さらなる追撃を浴びせ、最後は再び左のボディブローでダウンを奪い、そのまま10カウント。この瞬間、世界挑戦連続失敗記録にストップがかかり、日本ボクシング界に1年3か月ぶりの世界王者が誕生した。久しぶりの世界王者誕生に会場からは「万歳!」の声が何度も響き、当の本人も「自分が勝ったことよりも世界挑戦連続失敗記録にストップを掛けられたことが嬉しい」と喜びを爆発させた。
引用元:大橋秀行 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A9%8B%E7%A7%80%E8%A1%8C

鬼塚 勝也(おにづか かつや、1970年3月12日 – )は、日本の元プロボクサー。福岡県北九州市出身。WBA世界スーパーフライ級王者として5度の防衛に成功した。愛称は「SPANKY(スパンキー)K」。
鋼鉄の精神力と鋭いワンツーパンチがなによりの武器であった。また、シューズやトランクス、ガウン、セコンド着などは全て本人がデザインするなど当時としては大変斬新なボクサーであった。端整な顔立ちで、女性ファンも多かった。
>1992年4月10日、WBA世界スーパーフライ級の王座決定戦で僅差な勝利で王座獲得。
引用元:鬼塚勝也 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%A1%9A%E5%8B%9D%E4%B9%9F

薬師寺 保栄(やくしじ やすえい、1968年7月22日 – )は、元プロボクサーでタレント、俳優、ボクシング解説者。大分県津久見市出身。2歳から4歳まで徳島県池田町に住んでいた。愛知県小牧市育ち。現役時は松田ボクシングジム所属。第23代WBC世界バンタム級王座で4度王座を防衛した。現役時代の入場曲はアース・ウィンド・アンド・ファイアーの「Let’s Groove」。
>1993年12月23日、世界初挑戦。左眼網膜剥離で11月に予定していた世界戦をキャンセルした辰吉丈一郎の代役として、WBC世界バンタム級王者辺丁一(韓国)に挑み、12回判定勝ち。世界王座奪取に成功した。しかしこの試合は国内で酷評を受け、翌日の日刊スポーツでは、「薬師寺特攻奪取」との見出しを組みながらも、「すべての面で辺が上」「ジャパンマネーが判定に影響か」と痛烈に書いている(日刊スポーツ・93/12/24)。辺陣営も判定に猛抗議と再戦を要求し、翌年7月に2度目の防衛戦で再戦。この時は5度のダウンを奪った末の11回TKO勝ちを収め、辺を引退に追い込んた。
引用元:薬師寺保栄 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%AF%BA%E4%BF%9D%E6%A0%84