「講道館四天王」 西郷四郎 横山作次郎 山下義韶(よしつぐ) 富田常次郎

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次のうち
かつて「講道館四天王」と
呼ばれた柔道家を
1つ選びなさい
嘉納治五郎 「講道館創始者」
前田光世 「グレイシーへ柔道を伝える」
西郷四郎(答)
横山作次郎(答)
猪熊功 『YAWARA』猪熊滋悟郎のモデル
山下義韶(答)やましたよしつぐ
富田常次郎(答)
三船久蔵 「隅落」

講道館四天王(こうどうかんしてんのう)とは、柔道の講道館創成期から黎明期にかけて、他流試合の代表選手として、また講道館の師範代として活躍した4人の柔道家。西郷四郎、横山作次郎、山下義韶、富田常次郎のことを指す。
この4人は他の柔術の道場から講道館へと移り嘉納治五郎の弟子となった者などであり、その実力は並みの門下生では歯が立たなかったとされている。また、当時、警視庁などで行われた他流試合において、他の柔術の実力者に勝利、もしくは劣らなかったとされているなど柔道を広めるにあたって活躍した。
引用元:講道館四天王 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E9%81%93%E9%A4%A8%E5%9B%9B%E5%A4%A9%E7%8E%8B

西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) – 1922年(大正11年)12月22日)は、明治時代の柔道家。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。
>西郷の得意技は「山嵐」だが、これは幼少の頃から漁船上で仕事をしていた関係で影響で身についた「タコ足(足指が吸盤のような強い力を持っていたことから、この名で呼ばれる)」を生かしたため、相手の足を刈る際の技の切れは他者よりも格段に鋭かったと言われる。その技は嘉納治五郎に「ソノ得意ノ技ニ於テハ幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と言わしめた。山嵐は大東流の技法が活用されていたとする説も一部にあるが、西郷が大東流を学んだ形跡はなく、講道館に伝えられている山嵐の技法を見る限りでは、大東流の影響は余り感じられない。
>小柄で強い柔道家を「○○の三四郎」と呼称するのは、西郷四郎がモデルとなった『姿三四郎』の影響である。四郎自身の体格は、身長が五尺一寸(約153cm)、体重は十四貫(約53kg)だったと伝わる。
引用元:西郷四郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E5%9B%9B%E9%83%8E

横山 作次郎(よこやま さくじろう、1864年(元治元年)- 1912年(大正元年)9月23日)は、東京都出身の講道館創成期の柔道家。身長173cm(5尺6寸)、体重86kg(23貫)。段位は八段(没後追贈)で、通称「鬼横山」。富田常次郎、西郷四郎、山下義韶と共に「講道館四天王」と称された。また、三船久蔵や前田光世の師匠としても知られる。得意技は「払腰」、俵返し、横捨身で、また、自らが編み出した天狗投という技の使い手でもある(技については文献が無く、正体不明となっている)。
引用元:横山作次郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E4%BD%9C%E6%AC%A1%E9%83%8E

山下 義韶(やました よしつぐ[1]、1865年3月13日(元治2年2月16日) – 1935年(昭和10年)2月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段、大日本武徳会柔道範士。講道館四天王の一人で、史上初めて十段位を授与された[2]。
>1902年(明治35年)、アメリカシアトルに渡米、演武や講話を通じて柔道の普及に尽力。1905年(明治38年)3月29日、ワシントンD.C.で、ジョージ・グランドという体格ではるかに上回るレスラー(山下の身長162cm、体重68kgに対し、このレスラーは身長200cm、体重160kg)と試合をし、抑え込みで勝利した。これを見ていたセオドア・ルーズベルト大統領に認められ2年契約で合衆国海軍兵学校の教官となる。
引用元:山下義韶 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E7%BE%A9%E9%9F%B6

富田 常次郎(とみた つねじろう、1865年2月 – 1937年1月13日)は、伊豆国君沢郡(現静岡県沼津市)出身の柔道家。段位称号は講道館柔道七段、大日本武徳会柔道範士。講道館で最初の入門者・黒帯(初段)取得者である。
>『姿三四郎』の作者富田常雄は、常次郎の次男にあたる。
引用元:富田常次郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E7%94%B0%E5%B8%B8%E6%AC%A1%E9%83%8E

公益財団法人講道館(こうえきざいだんほうじんこうどうかん)とは、柔道家であり、教育家でもある嘉納治五郎が興した柔道の総本山。
>1882年(明治15年)5月に嘉納治五郎によって創設され、1909年(明治42年)に財団法人となり、段位の発行、大会開催、講習会、機関誌の発行、書籍の刊行など柔道普及のための諸活動を行っている。平成24年4月1日より公益財団法人に移行した。本館5階に全日本柔道連盟事務局が置かれている。
引用元:講道館 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AC%9B%E9%81%93%E9%A4%A8

西郷四郎 六段 Shiro SAIGO(1866〜1922)
会津藩士 志田貞二郎3男として会津若松に生まれ、津川町で育つ。1882(明治15)年上京し講道館に入門。1884(明治17)年会津藩家老 西郷頼母の養子となり保科四郎と改名、さらに1888(明治21)年廃家となった西郷家を復興して西郷四郎となる。
西郷は、嘉納師範留守中の道場を守り、また稽古熱心で特に技術に優れ、彼の山嵐は一閃必投の妙技となっていた。
1890(明治23)年嘉納師範外遊中に講道館を離れ、のち長崎に至り「東洋日の出新聞」に健筆をふるい、柔道・水泳・弓道の振興につとめた。1922(大正11)年12月23日静養先の尾道で病没、享年57。訃報に接した嘉納師範は「その得意の技に於いては、幾万の門下いまだその右に出でたるものなし」として1923(大正12)年1月14日付をもって六段を追贈した。
引用元:西郷四郎 六段 | 講道館 http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/palace/shiro-saigo/

横山作次郎 八段 Sakujiro YOKOYAMA(1864〜1912)
東京鷺宮村に生まれる。湯島天神下の井上敬太郎に天神真楊流を学んだ後、1886(明治19)年講道館に22歳で入門。柔術の素地があり、体力に優れ稽古熱心であったので急速な進歩を示し、入門の翌月初段、半年後には二段、翌年には三段となり、警視庁柔術世話掛となった。1904(明治37)年には山下義韶と並んで講道館初の七段に昇段している。この間、東京高等師範学校柔道教師としても指導者の養成に尽くした。
1912(大正元)年9月23日講道館最初の八段に列せられ、同日病没、49歳。横山八段が講道館初期より卓越せる技能と精神をもって講道館柔道の真価を世に知らせ、多くの後進を育成した功績は頗る顕著なものがある。
引用元:横山作次郎 八段 | 講道館 http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/palace/sakujiro-yokoyama/

山下義韶 Yoshitsugu YAMASHITA(1865〜1935)
>1865(慶応元)年、相模国足柄郡小田原生まれ。19歳で講道館に入門し、年に1万本を超す猛稽古を積み実力を付けた。嘉納師範からの信頼は厚く、入門から2年で講道館幹事に抜擢され、倍増していた入門者の取立てを一手に取り扱う大役を任されるまでになった。そして横山作次郎・西郷四郎・富田常次郎らと共に世間から「講道館四天王」と並び評される存在となる。
山下は、警視庁柔道世話係・慶応義塾柔道教師を勤める傍ら、1903(明治36)年、海外への柔道普及の志を持ちアメリカへと渡る。アメリカでは、ハーバード大学・海軍兵学校、セオドア・ルーズベルト大統領らに柔道を指導した。ルーズベルトは山下が教えた2年間、毎日食前に2時間の稽古を欠かさず、ホワイトハウスの中に柔道場を作らせるほど柔道に夢中になったという。
引用元:山下義韶 | 講道館 http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/palace/yoshitsugu-yamashita/

富田常次郎 七段 Tsunejiro TOMITA(1865〜1937)
>静岡県君沢郡に生まれる。1879(明治12)年嘉納師範の父、希芝の知遇を得、上京して嘉納家の書生となる。
1882(明治15)年、講道館を創立と同時に最初の門弟となり柔道修行に入る。1883(明治16)年8月には西郷四郎とともに講道館初の初段となった。
1891(明治24)年4月、明治天皇が学習院に行幸された際には、柔道教師として生徒の柔道を天覧に供する光栄に浴した。その後1906(明治39)年に前田光世、佐竹信四郎らとアメリカに渡り、柔道の普及につとめ、帰国後は本館及び溜池に設けた東京体育クラブを活動の拠点として柔道の普及振興に尽くした。
1937(昭和12)年1月13日没、享年72。講道館草創時代から嘉納師範と起居をともにして、柔道の普及発展に尽くした功績は頗る顕著なものがある。
引用元:富田常次郎 七段 | 講道館 http://kodokanjudoinstitute.org/doctrine/palace/tsunejiro-tomita/

嘉納 治五郎(かのう じごろう、1860年12月10日(万延元年10月28日) – 1938年(昭和13年)5月4日)は、日本の柔道家、教育者である。兵庫県平民[1]。
講道館柔道の創始者であり柔道・スポーツ・教育分野の発展や日本のオリンピック初参加に尽力するなど、明治から昭和にかけて日本に於けるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれる。
引用元:嘉納治五郎 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E

前田 光世(まえだ みつよ、男性、1878年12月18日 – 1941年11月28日)は、講道館黎明期の柔道家(7段)である。ブラジル帰化後の本名はコンデ・コマ(Conde Koma)。グレイシー一族に柔術を伝えた人物として知られる。
引用元:前田光世 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%85%89%E4%B8%96

猪熊 功(いのくま いさお、1938年2月4日 – 2001年9月28日)は、日本の柔道家。身長173cm。体重88kg[1]。
1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピック柔道競技の男子重量級で金メダルを獲得。
>決して天才肌ではなかった(古賀武・談[3])が、生来の負けず嫌いと“ケンカ柔道”の異名を取る程の凄まじい闘志、並々ならぬ努力が持ち味で[6]、得意技は一本背負投・体落など[3]。“目標とする柔道人”として、猪熊のライバルとして知られる神永昭夫の名を挙げていた[3]。 90kgにも満たない体で100kg以上ある大男たちを次々と宙に舞わせ「柔よく剛を制す」の体現者として、当時の国民的ヒーローに。また、柔道漫画「YAWARA!」の主人公・柔の祖父「猪熊滋悟郎(じごろう)」のモデルとしても知られる。
引用元:猪熊功 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E7%86%8A%E5%8A%9F

三船 久蔵(みふね きゅうぞう、1883年(明治16年)4月21日 – 1965年(昭和40年)1月27日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道十段。大日本武徳会柔道範士。
身長159cm、体重55kg。小柄な体型ながら「空気投げ」などの新技をあみ出し、1945年(昭和20年)最高位の十段を授けられ「名人」の称を受ける。「理論の嘉納、実践の三船」といわれ、柔道創始者である嘉納治五郎の理論を実践することに力をいれたことから「柔道の神様」とあがめられた。現在、出身地の岩手県久慈市に三船十段記念館が建っている。
>球車、大車、踵(きびす)返し、三角固め等多数の新技を発明し、その真髄といえるのが隅落(別名空気投げ)である。講道館では横山作次郎に師事。講道館指南役、東京帝大・明大・日本体育専門学校(現日体大)等多数の大学・専門学校、警視庁の柔道師範として柔道の普及、後進の育成にも多大な功績を残した。
球車、大車、踵(きびす)返し、三角固め等多数の新技を発明し、その真髄といえるのが隅落(別名空気投げ)である。講道館では横山作次郎に師事。講道館指南役、東京帝大・明大・日本体育専門学校(現日体大)等多数の大学・専門学校、警視庁の柔道師範として柔道の普及、後進の育成にも多大な功績を残した。
引用元:三船久蔵 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%88%B9%E4%B9%85%E8%94%B5