「塩田剛三」しおだごうぞう「合気道」生ける伝説 「牛島辰熊」最強の柔道家・木村政彦の師匠

234hdQvEKLQqN
「不出生の天才」と呼ばれた
合気道の達人です
塩田剛三
しおだごうぞう(答)


CIMG1897lFMkKmXVcoiq
1925~27年に明治神宮競技大会の
柔道を3年連続で制した柔道家で
石原莞爾らと交流を持つなど
思想家としても知られたのは?
木藤政熊
牛釣兼吉
岩島幸彦
→牛島辰熊
うしじまたつくま


全日本選手権を13年間保持し続け15年間不敗のままプロへ転向した「史上最強の柔道家」とも呼ばれる昭和の柔道家は?
木村政彦(答)


2011年に話題となった増田俊也の著書は『木村政彦はなぜ〇〇〇を殺さなかったのか』?
りきどうざん(答)
『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

bxvXZogsna
キムラマサヒコハナゼリキドウザンヲコロサナカッタノカ1
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか〔上〕
15年不敗、13年連続日本一。「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」と謳われた伝説の柔道王・木村政彦。「鬼の牛島」と呼ばれた、戦前のスーパースター牛島辰熊に才能を見出され、半死半生の猛練習の結果、師弟悲願の天覧試合を制する。しかし戦争を境に運命の歯車は軋み始めた。GHQは柔道を禁じ、牛島はプロ柔道を試みるが……。最強の“鬼”が背負った哀しき人生に迫る。
増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか〔上〕』|新潮社

塩田剛三(しおだ ごうぞう、1915年(大正4年)9月9日 – 1994年(平成6年)7月17日)は、東京府四谷区(現・東京都新宿区四谷)出身の武道(合気道)家である。本名・塩田剛(しおだ たけし)。身長154cm、体重46kgと非常に小柄な体格ながら「不世出の達人」と高く評価され、「現代に生きる達人」「生ける伝説」とも謳われた。
>1932年、18歳の頃、塩田の父親から相談を受けた府立六中校長の誘いで、植芝盛平が営む植芝道場を見学に訪問。その時期の塩田は武道の腕前を上げ慢心を見せ始めており、植芝と門下生の稽古も内心「インチキじゃないか」と思いながら眺めていたという。そこへ植芝自ら塩田に「そこの方、やりませんか」と声をかけ、1対1の稽古をしないかと誘ってきた。塩田はその申し出を受けて事実上の立ち会いに臨み、植芝へいきなり前蹴りを放った。すると一瞬で壁まで投げ飛ばされ、驚嘆した塩田は即日入門を決意。植芝の門下生となった。
>柔道家・木村政彦は、拓殖大学の後輩に当たる。増田俊也の著書『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』によると、「塩田は木村よりも先に拓殖大学予科に入学していたが、2年間の内弟子生活で休学していたため同期として授業を受けていた」とされている。青年時代の木村はその実力から『拓大最強の男』と呼ばれ、「腕相撲では負けた事が無い」と豪語していた。それを聞いた塩田は腕相撲で木村に挑戦し、3回対戦して2回勝利したという。ただし木村はこの話を否定しており、「実際は塩田さんとは10回以上やって全敗した」と述べている。
塩田剛三 – Wikipedia

牛島 辰熊(うしじま たつくま、1904年(明治37年)3月10日 – 1985年(昭和60年)5月26日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道九段。大日本武徳会柔道教士。
明治神宮大会3連覇、昭和天覧試合準優勝。その圧倒的な強さと気の荒さから「鬼の牛島」と称された。柔道史上最強を謳われる木村政彦の師匠として有名だが、牛島自身も木村に負けぬ実績を持つ強豪であった。
牛島辰熊 – Wikipedia

木村 政彦(きむら まさひこ、1917年(大正6年)9月10日 – 1993年(平成5年)4月18日)は、日本の柔道家。段位は講道館柔道七段。
全日本選手権13年連続保持[1]、天覧試合優勝も含め、15年間不敗のまま引退[2]。「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」[3]と讃えられ、現在においても史上最強の柔道家と称されることが多い。
その荒々しい柔道スタイルから「鬼の木村」の異名を持つ。
木村政彦 – Wikipedia

岩釣 兼生(いわつり かねお、1944年3月25日 – 2011年1月27日)は、日本の柔道家。七段。身長182cm、体重105kg(全盛期)。
晩年、雑誌などでは岩釣 兼旺を名乗ることが多かった。
熊本県出身。熊本県立鹿本高等学校時代、柔道史上最強をうたわれる「鬼の木村政彦」にスカウトされ拓殖大学に入学。当時の木村の指導方法は、気が向いたら真夜中だろうと部員を叩き起こすというもので、1日のうち24時間が練習時間と言っても過言ではないくらい厳しいものであったとされる。
岩釣は師匠ゆずりの独特の大外刈りや腕緘(キムラロック)を身につけて、1965年の大学4年時、キャプテンとして部を率い、全日本学生柔道優勝大会決勝でそれまで4連覇していた明治大学を破って拓殖大学を戦後団体戦初優勝に導く。
>現役引退後は母校の拓殖大学でコーチや監督を歴任。1988年のソウルオリンピックではその指導力を買われ、エジプト代表チームの監督を務める。ロサンゼルスオリンピック決勝で山下泰裕と戦ったモハメド・ラシュワン(エジプト)は岩釣の愛弟子にあたる。その後、講道館での指導員を経て、坂口征二の主宰する坂口道場にて後進の指導に当たっていた。
岩釣兼生 – Wikipedia