源頼朝「奥州藤原氏を滅ぼす」


1189年に奥州藤原氏を滅ぼした
源氏の武将は源頼朝である
◯(答)

奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)は、前九年の役・後三年の役の後の寛治元年(1087年)から源頼朝に滅ぼされる文治5年(1189年)までの間、陸奥(後の陸中国)平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯に勢力を張った豪族。藤原北家秀郷流を称した。

平泉文化[編集]
長治2年(1105年)に清衡は本拠地の平泉に最初院(後の中尊寺)を建立した。
永久5年(1117年)に基衡が毛越寺(もうつうじ)を再興した。その後基衡が造営を続け、壮大な伽藍と庭園の規模は京のそれを凌いだと言われている。毛越寺の本尊とするために薬師如来像を仏師・雲慶に発注したところあまりにも見事なため、鳥羽法皇が京都の外へ持ち出すことを禁じてしまう。これを聞いた基衡は七日七晩持仏堂にとじ籠って祈り、関白藤原忠通に取り成してもらい法皇の許しを得て、ようやく安置することができたという[3]。
天治元年(1124年)に清衡によって中尊寺金色堂が建立された。屋根・内部の壁・柱などすべてを金で覆い奥州藤原氏の権力と財力の象徴とも言われる。[要出典]
奥州藤原氏は清衡、基衡、秀衡、泰衡と4代100年に渡って繁栄を極め、平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市となった。戦乱の続く京を尻目に平泉は発展を続けた。半ば独立国であった。

落日[編集]
詳細は「奥州合戦」を参照
秀衡は平治の乱で敗れた源義朝の子・源義経を匿い文治元年(1185年)、源頼朝に追われた義経は秀衡に再び匿われた。
秀衡は頼朝から出された義経の引渡要求を再三再四拒んできたが秀衡の死後、息子の藤原泰衡は頼朝の要求を拒みきれず文治5年(1189年)閏4月義経を自殺に追い込み、義経の首を頼朝に引き渡すことで頼朝との和平を模索した。
しかし、関東の後背に独立政権があることを恐れた源頼朝は同年7月、義経を長らく匿っていたことを罪として奥州に出兵。贄柵(秋田県大館市)において家臣の造反により泰衡は殺され、奥州藤原氏は滅んだ。
平家滅亡により源氏の勢力が強くなったこと、奥州に深く関わっていた義経が頼朝と対立したことなどにより中立を維持できなくなっことが滅亡の原因となった。
引用元:奥州藤原氏 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F

おうしゅうふじわらし【奥州藤原氏】

平安末期、平泉を拠点に陸奥むつ・出羽を支配した大豪族。初代清衡以降、基衡・秀衡を経て1189年四代泰衡が源頼朝に滅ぼされる。
引用元:奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E5%B7%9E%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F-217010