本因坊


1945年8月6日に行われた
橋本宇太郎と岩本薫による
有名な原爆下の対局は、囲碁
のどんなタイトル戦だった?
棋聖
名人
天元
本因坊(答)
55%

原爆下の対局(げんばくかのたいきょく)は、1945年(昭和20年)8月6日に行われた囲碁の第3期本因坊戦第2局のこと。対局者は橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫七段(いずれも当時)。この対局は広島市郊外の佐伯郡五日市町(現広島市佐伯区吉見園)において行われた。対局中にアメリカ軍の広島市への原子爆弾投下があり、対局者が被爆したことで知られる。原爆対局(げんばくたいきょく)、原爆の碁(げんばくのご)ともいう。

対局が行われていた五日市町吉見園は爆心地から5キロメートルほど離れていたものの、爆風により障子襖などが破壊され対局は一時中断された。混乱はあったが午前中に対局は再開され、原爆投下当日中に終局して白番の橋本本因坊の五目勝となった。

原爆投下[編集]
対局3日目の8月6日、午前8時15分、局面は106手目頃であった。この日の対局が始められた直後に(前日までの手順を並べなおした直後という話もある)、アメリカ軍の爆撃機B-29、エノラ・ゲイが投下した原子爆弾が炸裂した。ピカッという光線と大音響がし、爆風で障子襖が倒れ、碁石は飛び、窓ガラスは粉々になったと言われる。橋本昭宇本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。岩本薫の回顧録によれば、

「いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。(中略)ひどい爆風で私は碁盤の上にうつ伏してしまった(以下略)」
立会人・瀬越は驚くべきことに、端然と床の間を背に正座したままであったという(後に本人は、「腰が抜けて動けなかっただけだ」と語った)。

対局は一時中断されたが、部屋を清掃した後ほどなく再開された。両対局者に動揺はあったものの最後まで打ち切り、同日正午ごろに終局。白番の橋本本因坊の五目勝となった。

この原爆で、第一局を開催した広島支部の藤井支部長の家族や関係者は全員死亡し、瀬越憲作八段の三男と甥も亡くなった。なお青木参事官は奇跡的に助かり、後に民選初代の愛媛県知事に就いているが、この対局場の変更を当時の広島で行った良いことの二つのうちの一つに挙げている。

原爆対局の後[編集]
翌日から橋本本因坊、岩本七段ともに広島市に入り、関係者の消息を尋ねており、元々3日空けて第三局を打つ予定であったが、これ以上広島での対局が困難であること、瀬越八段の中学生の三男の死期が近かったことから、対局は中止とし、橋本本因坊と三輪五段は関西へ、岩本七段は郷里の島根へと帰った。東京の日本棋院では両対局者とも死亡したと思われていたが、2週間ほどして三輪五段が到着して経緯を報告した。

第三局は4ヶ月後の1945年11月11、12、13日に、第四局は11月15、16、17日に千葉県野田市で打たれ、1勝1敗であった。第五局は11月19、20、21日に、第六局は11月22、23、24日に東京の目黒で打たれた。二週間で三日制の碁を4局打つというのは、現代では考えられない強行日程である。まして当時は食糧事情も最悪の時期であった。結果は1勝1敗であった。本因坊の座は規定で日本棋院預りとなり、改めて翌年8月に高野山にて三番勝負が実施され、岩本薫七段が2連勝して第3期本因坊の座についた(高野山の決戦)。なお、被爆死した関係者の慰霊のため、決定三番勝負第一局の二手のみ7月26日に五日市町の西隣の廿日市町(現廿日市市)の蓮教寺で打たれている。

立会人瀬越は1972年に83歳で、橋本宇太郎は1994年に87歳で、岩本薫は1999年に97歳で、いずれも長寿を保って亡くなっている。

なお、岩本薫の基金で1995年に建てられたシアトルの日本棋院囲碁センターの壁には、原爆対局の棋譜がタイル張りで飾られている。
引用元:原爆下の対局 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%88%86%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%AF%BE%E5%B1%80