清少納言『はなとゆめ』


冲方丁の小説『はなとゆめ』で
生涯が描かれている人物は
清少納言である
◯(答)
×紫式部
45%


次の藤原道長の娘と
嫁いだ相手の
正しい組み合わせを選びなさい
藤原彰子───一条天皇
藤原妍子───三条天皇
藤原威子───後一条天皇

——冲方さんは『天地明察』で、江戸期の天文学者・渋川春海の知られざる生涯を濃厚に綴り、『光圀伝』では、誰もが知る「黄門様」の意外な実像を苛烈に描き切りました。待望の歴史小説第三弾『はなとゆめ』の主人公は、清少納言。およそ千年前の平安時代、随筆文学の元祖『枕草子』を書いたことで知られる人物です。彼女の人生を小説にしよう、と思いついたきっかけを教えて下さい。
冲方 きっかけは『光圀伝』なんです。水戸光圀は若い頃に中国の歴史書『史記』を読んで、自分は日本の歴史を綴ろうと志します。そのくだりを書く時に、『史記』にまつわる日本のエピソードをいろいろ調べてみたんですね。その過程で、「天皇様は『史記』=「敷物」を書き写している、だったら私たちは『枕』を書く」と言った、清少納言のエピソードに出会いました。光圀が『史記』を追い求める一方で、清少納言が求めた『枕』とは何なんだろう? 『光圀伝』を書き終えた後でふと、そのことが気になり始めたんです。また、光圀は京都に対する憧れが非常に強い人物でした。彼に限らず、当時の江戸時代の武士たちが憧れた京都文化、その本源にあるのは平安時代に栄華を誇った朝廷文化です。『枕草子』は日本最古の女流文学であると同時に、平安貴族の日常をいきいきと綴った朝廷文学でもある。『枕草子』の成立過程を物語にすることで、当時のことを知ることができると思ったんです。
ちょうどその頃、新聞連載の依頼があったので、「清少納言はどうでしょう」とこちらから提案させてもらいました。

>——『はなとゆめ』というタイトルには、どんな思いを込めましたか?
冲方 タイトルはいろいろ悩んだんですが、先に物語のテーマが決まっていたんですね。人生の「華」を見ること、「華」が永遠に続くことを「夢」見ること。ともに『枕草子』に記されたテーマです。最終的には、ヘンにひねらず、ひらがなの『はなとゆめ』でいこうと決めました。その後で、はたと気づいたんです。そういえば、似た名前の少女漫画雑誌があったぞと(笑)。
引用元:『はなとゆめ』冲方丁ロングインタビュー|KADOKAWA http://promo.kadokawa.co.jp/hanatoyume/contents/interview.php


『天地明察』『光圀伝』の異才が放つ、傑作歴史小説!

なぜ彼女は、『枕草子』を書いたのか――。28歳の清少納言は、帝の妃である17歳の中宮定子様に仕え始めた。華やかな宮中の雰囲気になじめずにいたが、定子様に導かれ、その才能を開花させていく。機転をもって知識を披露し、清少納言はやがて、宮中での存在感を強める。しかし幸福なときは長くは続かず、権力を掌握せんとする藤原道長と定子様の政争に巻き込まれて……。清少納言の心ふるわす生涯を描く、珠玉の歴史小説!
引用元:はなとゆめ 冲方 丁:書籍 | KADOKAWA http://www.kadokawa.co.jp/product/321512000041

藤原 定子(ふじわら の ていし/さだこ[1]、貞元2年(977年) – 長保2年12月16日(1001年1月13日)[2])は、平安時代、第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は一条院皇后宮。女官に『枕草子』の作者清少納言がいる。

生涯[編集]
永祚元年(989年)父方の祖父である摂政兼家の腰結いで着裳、その時はじめて歴史の表舞台に登場する。正暦元年(990年)1月25日、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内し[3]、まもなく従四位下に叙せられ、ついで女御となる。局は登華殿(一説に梅壺、または両方とも)。
同年10月5日[4]、皇后に冊立され「中宮」を号した。なお、定子は一条天皇の皇后として「中宮」を号したのであり、立后の詔にも「皇后」と明記された。正暦元年当時、律令が定める「三后」のうち、太皇太后は3代前の帝の正妻・昌子内親王、皇太后は当帝の生母・藤原詮子、中宮は先々代の帝の正妻・藤原遵子で全て占められていた。道隆はその中に割り込んで定子を立后させるために、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させて定子に与え、また遵子に付属した「中宮職」を改めて「皇后宮職」とし、「中宮職」を定子のために新設した。その結果、「往古不聞事」である皇后四人の例を作り出して世人の反感を招いたという(『小右記』)。また、道隆は弟の藤原道長を中宮大夫に命じて定子を補佐させようとしたが、道長は父の喪中を理由に立后の儀式を欠席している。のちに道長が「皇后」と「中宮」の区別を利用して「一帝二后」を謀り、定子を窮地に追いやることになるのだが、その元を作ったのが定子の父道隆であることになる。同じ年の5月には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任しており、道隆一族は栄華を謳歌する事となった。
引用元:藤原定子 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9A%E5%AD%90

藤原 彰子(ふじわら の しょうし/あきこ、永延2年(988年) – 承保元年10月3日(1074年10月25日)は、第66代一条天皇の皇后(号は中宮)。第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母(国母)、女院。院号を上東門院(じょうとうもんいん)といい、のちには大女院(おおにょいん)とも呼ばれた。
女房に『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門、続編の作者と伝えられる出羽弁、そして「古の奈良の都の八重桜 けふ九重に匂ひぬる哉」の一句が有名な歌人の伊勢大輔などを従え、華麗な文芸サロンを形成していた。
引用元:藤原彰子 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E5%AD%90

朝日日本歴史人物事典の解説

藤原妍子

没年:万寿4.9.14(1027.10.16)
生年:正暦5(994)
平安中期,三条天皇の中宮。枇杷殿皇太后と称される。藤原道長と源倫子の娘。寛弘1(1004)年尚侍,次いで従三位に叙せられる。同7年,従二位に進み,東宮居貞親王(三条天皇)に入る。翌8年,親王の即位に伴って女御となり,長和1(1012)年には中宮に立った。翌2年に禎子内親王(陽明門院)を出産したが,天皇の外戚として摂関の地位を確保しようと図る父道長は,女子の誕生に不快の色を露にしたという。寛仁2(1018)年,皇太后となる。万寿4(1027)年には,禎子内親王を東宮敦良親王(後朱雀天皇)に入れるも,病に倒れ,死に臨んで出家,34歳の生涯を閉じた。三条天皇は在位4年余で譲位し,彼女自身,親王を生むことはなかったが,大饗など折節の行事の際,仕える女房たちの華やかな装束で評判を集めていたことが,『栄花物語』などから知られる。
(西村さとみ)
引用元:藤原妍子(ふじわらのけんし)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%A6%8D%E5%AD%90-124621

藤原威子 ふじわらの-いし

1000*-1036 平安時代中期,後一条天皇の中宮(ちゅうぐう)。
長保元年12月23日生まれ。藤原道長の娘。母は源倫子。寛仁(かんにん)2年(1018)入内(じゅだい)。同年女御(にょうご),ついで中宮となる。このとき道長は彰子,妍子とともに一家から3人の后がたった喜びを,有名な望月の歌によんでいる。章子内親王(二条院),馨子(けいし)内親王を生んだ。長元9年9月6日死去。38歳。名は「たけこ」ともよむ。
引用元:藤原威子(ふじわらのいし)とは – コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%A8%81%E5%AD%90-124598