カルナナンダ『ゼッケン67』


東京五輪の1万m決勝において
周回遅れで1人でゴールした
当時セイロンの陸上競技選手で
その話は教科書にも載ったのは?
ナダカンルナ
カルナナンダ(答)
23%

ラナトゥンゲ・カルナナンダ(Ranatunge J. K. Karunananda、1936年5月21日 – 1974年)は、セイロン(現スリランカ)の元陸上競技選手である。彼はセイロン代表として1964年の東京オリンピックに出場し、男子10000メートル走で3周遅れになりながらも完走を果たして有名になった人物である。

当時28歳だったカルナナンダは、セイロンから唯一の陸上競技代表選手として東京オリンピックに参加した[1]。

長距離走が専門だった彼は、5000メートル走と10000メートル走の2種目に出場した。10月16日に実施された5000メートル走予選では、3組で16分22秒2を記録し、13人中12位となって決勝進出を逃した[2]。

5000メートル走に先立って10月14日に実施された10000メートル走では、カルナナンダは5000メートル通過時の記録が16分43秒0で、先頭で走っていたアメリカ代表のビリー・ミルズから既に2分半以上遅れていた。他の28選手が全てゴールし終わった後も、脇腹を押さえながら走り、国立霞ヶ丘陸上競技場のトラックを3周してゴールした。最初は笑い混じりでその姿を観ていたスタンドの人々の様子は、次第に驚きと感動に変わり、やがて優勝者にもまして大きな拍手がカルナナンダの健闘を讃えて送られた。このレースでの彼の記録は34分21秒2で、28位に入った日本代表の渡辺和己よりも3分以上遅い記録だった[3]。

最後までレースを諦めないカルナナンダの逸話は、1970年代の小学4年生用国語教科書(光村図書出版)で『ゼッケン67』という題名で採用されるなどして、人々の記憶に長く残った[4][5][6]。

カルナナンダは東京オリンピックからわずか10年後に、ボートの事故によって死去した。なお、オリンピック後の一時期にカルナナンダと文通していた千葉県船橋市に住む男性が2010年10月にスリランカを訪問し、彼の遺族とスリランカのオリンピック委員会に映像などのゆかりの品を渡している[7]。
引用元:ラナトゥンゲ・カルナナンダ – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%8A%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%80

「ゼッケン67」にピンとくる人は、1964年の東京オリンピックを目の当たりにしたか、小学校の国語の教科書で読んだかだろう。

 東京五輪1万メートルは38選手中9人が途中棄権した。スリランカ、当時セイロンのカルナナンダ・ラナトゥンゲは遅れた。他の選手のゴール後、1周、2周、3周した。冷ややかだった7万の観衆は、トラックを一人走るゼッケン67に吸い寄せられ、優勝をも上回る拍手でゴールに迎えた。

 鈴木康允(すずき・やすまさ)(71)は両親を早くに病気で亡くし、24歳の当時は東京都墨田区のおじの雑貨店で働いていた。たぶんそこのテレビでレースを見た。

 恥ずかしさだってあるだろう。すごいやつがいるなあ。将来への漠然とした不安を抱える鈴木に、頑張る大切さを教えてくれた気がした。

 感動を抑えられなくなった。趣味で1年以上かけてつくった西洋の砦(とりで)の模型を持ち、近くの新聞社の支局を訪ねた。あの選手に贈りたいのだと言うと、記者が選手村まで行こうと誘い、あれよあれよという間に鈴木は心の英雄と対面していた。

    ◇

 英雄は鈴木より4歳上、身長は167センチで鈴木より少し小さかった。「この体にすごいエネルギーを秘めている」。2人の縁の始まりは、2人が会った最後になった。

 帰国した英雄に鈴木は手紙を書いた。返事が来たのは4年後。日本で働きたいと書かれていた。だが、再び音信は途絶えて90年代も半ば、鈴木はカルナナンダが74年に水死していたことを知った。

クサカの父は知っていた。渡した名刺をたよりに電話をかけてきて、スリランカの自宅近くにカルナナンダの親類が住んでいると話した。鈴木は翌年、ヘーラト家の案内でスリランカを訪ねた。

 70年代、光村図書の小学4年国語の教科書に載った「ゼッケン67」は、カルナナンダの言葉で結ばれている。「国には、小さなむすめがひとりいる。そのむすめが大きくなったら、おとうさんは、東京オリンピック大会で、負けても最後までがんばって走ったと、教えてやるんだ」

 ビリの英雄は46年をへて、鈴木をその娘、ネルム(47)に引き合わせた。ネルムは看護師をしながら病気の母と子ども2人の面倒をみていた。

 「父のことを話して鈴木さんは泣きました。どれだけ父を大事に思ってくれているかがわかりました。鈴木さんとの出会いは、父の思い出とともに私の中にあります」

 ネルムはそう話す。東京五輪の年、それもカルナナンダが出場を決めた日に生まれた。「お前は私に幸運をもってきてくれた」。10歳の時に亡くなった父は、口癖のように言っていた。
引用元:朝日新聞デジタル:ゼッケン67 走り続ける – ニッポン人脈記 http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY201205080289.html